12月
13

もう今年もあと少しです。本当にあっという間でした。マクロとミクロまで行かないですけれども、時間があっという間 というのは、なにか楽しかったとか充実していたからあっという間 という意味で使われる一方で、もう一年終わってしまった、もうこんな歳になってしまったと、視点によって印象がぜんぜん違う言葉になりますね。不思議です。

今年を振り返っているわけではないんですが、ふと、今年は年初に立てた目標を達成できなかったことに気が付きました。

2015年の目標はより積極的な発信だったのですが、残念ながらFacebookやTwitter、実際に人とあった時もあまり積極的に意見を言えていたかというとそういう感じはしません。自分で言うのもあれですが、発信することがそもそもなかったんじゃないかと言われるとそういう気もしないんです。ただ、それを言おうとか、書こうとは思わなかった。これ、それはもうそういう意識が足りなかったで終わらせようと思ったらそうなのですが、最近発信の仕方でものすごい差がつくなと感じる出来事が幾つもあったので少し考えてみたいと思います。書いてもそれ当たり前じゃんという結論が出てくる気がしますが、年末ですし。とりあえず。

言語化 という単語は、もうやたらめったら使われてしまってあまりいい印象無いですよね。自己啓発本にでもたくさん書かれているのでしょうか。自己啓発本自体もどうしてあそこまで印象が悪くなっているんでしょう。それはともかくとして、表現するときには大別して非言語的な表現と言語的表現があります。「今年はいろいろやってたけど発信しなかった」と書きましたが、行動をしていたのならそれは非言語的表現を行っているので表現自体はしていることになります。ただ、発信をしていなかった。言葉の定義は人それぞれなのでこれとはいえないですが、僕は表現することは自分が自分の意志で食事をして生命を維持している限り表現していると考えてしまっているので表現と発信は完全に分けて考えています。

発信をするためにはそれなりの手続きを踏む必要があります。体の動きを発信するためには舞台の上に立つ必要があります。絵は書いたら飾らなくてはいけませんし、音は聞いてもらいたい人の聞こえる範囲で発せられなくてはなりません。もう少しざっくりした書き方をすると、コンテンツプラットフォームに乗る必要があります。これは川上 量生さんの『コンテンツの秘密』で書かれていたことの影響が強いんですが、発信が行われていますという状態は受け手が受取可能な状態に落とし込まれている状態なのではないかと考えています。その一番代表的な行為が言語化です。ある一定の文法・法則に基づいて整理していきます。当然上手い下手があって、上手い人は575で歴史に残る言葉を残しますし、長い文章でも何故か僕は読んでしまう『ノルウェイの森』とかありますが、大概の場合は多くの言葉を使ってその言葉が意味することを組み立てるに過ぎませんが、少し練習すればそれなりの情報を乗っけることができる手軽な方法です。

今年発信できなかった理由の一つにはこの発信のための言語化作業が足りなかったのがまず一つ目だと思っています。日記を書いてはいるのですが、それはきちんとまとめるという作業をしているわけではありません。その日あったことやその日考えたことを書いているだけで、きちんとそれをまとめて自分で納得して残しているわけではありません。なので、後から読み返して考えなおすきっかけとしては使えているのですがそれが受け手が受取可能な状態かと言われるとそういう状態ではありません。(この文章自体、受取可能な状態なんでしょうか)日記・アイデアノートとまとめノートは別になっているのですが、まとめノートの記述量が明らかに少なかったです。普段から話していたり時間を割いてくれる人はある程度まとめが行われていないでも伝えることができるのですが、やはりそれ以外の人には伝わりません。人のとった授業ノートを読むようなもので、その書いたノートをそのまま載せても無意味です。たぶんこの作業が少ないせいで、自分以外の人の意見を広く求めるということもできなくなっているはずです。これがもっときちんとできていれば飲み会のような座って話すような場でなくても、たとえそれが立ち話でもいろいろな意見をもらえたのではないかと思うと本当に惜しいことをしたと思います。ここ一週間、二週間ぐらいかなり意識して 話を聞く→とりあえず書く→自分の意見と合わせてまとめる→もう一度話す ということをしてみたのですが、全然話の情報量が違いました。ただまだそのまとめの作業が追いつかないまま次の話に入ってしまうこともあり、まだまだ訓練が必要です。

もう一つの理由は少し関連しているのですが、変な自信があったことだと思います。自分で書くのもあれですが、学生らしさかもしれません。発信したところで普通は見てもらえません。見てくださいとお願いして回ってやっと少し見てもらえたり、読んでもらえたり。それでも伝えたいと思って発信を続けるものですが、それなのに何故か批判されることを怖がったり何か影響が出るのではないかと思って書くのを躊躇していた気がします。発信したらきっと読んでもらえる 自分の書いたものは誰かに影響を与えられる という自信があって発信しない。こう書いてみるとなんだかとんでもないことですが、無意識にそれをやってしまっていた気がします。自分で書いててこういうのもあれですが、面白いなあと思ったのが、自信云々の話をすると、一般的には“自信がないから発信していない”のではないかと捉えられがちです。確かに学校での発言では“答えに自信がないから発言しません”ということがあります。僕が思うにその延長線上で実際は答えがない事柄に関する場面においても何らかの答え(教授であったり専門家)を勝手に設定してしまい“自分の意見なんて”と思ってしまい発言しないと感じている人が意外と多い気がしますが、実際はそもそも答えがない場面に於いて発言して何らかの間違っている・間違っていないの議論が発生するほどの影響力があるなんて逆に状態として自信過剰ですよね。最初の時間の話じゃないですが、思っているのと状態が真逆と言うのは面白いです。

もう一つ大きな理由として、まとめをどの程度の具体度出始めるかの基準が高すぎた気がします。このブログも見返してみると“こういうことをしました”という事実を書いているに過ぎません。プロのエンジニアの方のブログならいいのですが、それにしては内容がお粗末。最初作った時はFABの研究をしながらYOKOITOを運営している立場からものに対する新しい見方とか意見を発信していきたいと思って作ったのに、これではカルチャースクールの受講日誌です。それはそれですが。まとめ作業が不足しているのでそもそも持っている言葉の具体度が低いというのもあったとは思いますが、それともう一つとても具体的にならないと書くのを躊躇していたというのもあると思います。それではいつまでたっても人の意見や実際にあったことを書くに過ぎませんし、新しいことができません。意見をもらうことすらできません。普段の会話でも最近気をつけるようにしているのですが、どうも具体度が高いことしか言わないのでさぞ聞いている方は余地がなく退屈でしょう。僕はどうも決めつけるくせがあるのでもっといろいろな人に意見をしてもらいたいですし、お願いしたいです。そういう意味でも、もっと抽象的な段階から、まだこう思うんだけれども という段階からきちんとまとめて話せたり書けたりしないといけないなと思いました。自分の言葉で ということについては、最近思うところがあったのでまた次の機会に書こうと思います。

この文章自体もとても抽象的で、色々突っ込みどころがあると思ってます。普段日記に書くような書くような感覚で今日の分として書こうと思ってたことをそのまま少しまとめて書いてしまっています。そこは年齢に甘えつつ色々意見を貰えればと思います。要はこれが書きたかっただけなのかもしれませんね。twitterとか他のところ、実際に何かに出席した時の発言の姿勢が変わっていくと思いますので、どうぞ宜しくお願いします。 

おまけ すっかり冬の色ですね

http://x2007.petit.cc/muscat2/?page=7

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