新しく作ったAWS WorkSpacesのWorkspaceにクライアントからログインしようとして手こずった話

  • AWS Workspacesの新たなWorkspaceにログインできない

AWSのWorkspacesで新たにWorkspaceを作りユーザーを割り当て、クライアントソフトからログインしようとしたがログインできない。

  • 起動時の画面に新しいログイン情報を入れてもだめ。パスワードリセットもサーバーエラーでだめ。
    ここに新しいログイン情報を入力すればいいと思ってたが、実は前のregistration情報が残っていて、前のワークスペースに接続しようとしている。厄介なのはパスワードリセットまで前のワークスペースにアクセスしようとしてしまうのでユーザー名が違う時点でリジェクトされる。もしシャットダウンされていたらサーバーエラーを吐いてしまう。
  • オプションからRegistration情報を変更する
    Manage Registrationsからメールでもらっている登録コードを入力し直す必要がある

    ここから登録コードを入力して、接続先を変えて初めてログインできる。結構前にWorkspaceを立てたものだから最初にこの登録コードを入力したことをすっかり忘れていた。

 

ちなみにWorkSpacesのクライアントアプリを削除してインストールし直してもこの画面はOptionから開かない限り出てこず、以前の登録コードが保存されていてLogin画面が出てきてしまうので勘違いしやすい。

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何かを発信しなければという焦燥感-2018/10/29

Twitter,Facebook,Instagram,Youtubeと、UGC(ユーザージェネレーテッドコンテンツ だったはず。。。)をベースとしたサービスがたくさんある。

こういったサービスを見れば見るほど、自分も何か発信しなければいけないという焦燥にかられる。

 

インターネットによって誰もが情報を発信できるようになり、誰もが誰とでも繋がることができるようになる。

 

インターネットのメリットを説明するときの教科書的文章だ。基本的には正しいが、現在結果的には現実世界と同じくアクセスがたくさん集まる場所と全く集まらない場所の二極化が進んでいる。本当に、不動産みたいな話だ。

一等地はGoogle検索順位1番地。メディアの運営とそれに付随する広告収入だけで1部上場している企業がわんさとあるんだから本当にすごい話だ。

どのUGCのサービスでも言えることで、一定のアクセスを得ることでそのプラットフォームが結構中抜きしているにも関わらずそれなりの収入を得ることができている人が出ている。

ただそれも本当に一握りの話で、全体の1%行くか行かないか。全く持ってもらえない人がほとんどだ。コンテンツというのは、積み重ねで気が付いた時にはもう追いつけないほどの量のコンテンツとそこに対するアクセス、オーガニックの検索順位という価値が付随している。なので、本当にやったもん勝ち的な部分がある。

最近この感覚がすごいあって、あまりよくないなあと思っている。この感覚というのは、埋蔵金探しみたいな感覚で誰かがやったらそのやったもん勝ちで、だんだんとそのあたりは減っていってると言う感覚。ゴールドラッシュの時に群がった人々がたくさんいるが、金には埋蔵量の上限がある。それだけ掘ってしまえばもう掘れ無くなってしまう。

なんだかあらゆる物事がどこかに上限があるんじゃないかと言う気がしてならない。

しかし、実際には世の中ここ何十年もうこれ以上便利にはならないよねみたいなことが言われつつも、結果的には進歩し続けているわけだからきっとそんなことはないのだろう。きっと10年後はもっと便利になっているはずだ。10年前には想像できなかったことが実際に起きているわけだし。

(新宿、10年後はどうなってるやら)

で、話を戻すと何かを発信しなければならないと言う焦燥に駆られている。

駆られているのだけれども、そうやって何かをひねり出そうとしている時点でもう才能がないと言うか、ダメなんじゃないかと言う意見がある。

作れる人はもう黙ってても作れるし、溢れ出してくるものだと。

ただ僕はこの意見には結構懐疑的で、と言うか自分がそうじゃないから懐疑的にならざるおえないと言えばそうなのだけれども、結構突飛よしもないものも何らかの延長線上か何かと何かの組み合わせだと思うので周りから見るよりも当人はひねり出そうとして、何とか出てくるアイデアなのではないかと思う。

何かを発信すると言うのは、要は自分の作品を作りたいと言う気持ちの裏返しなんじゃないかと思う。結局今の所自分自身で何かを作り上げたと言う感覚は全くなく、どのような物事もこれはあの人がいたからできたことだし、これはこの人がいたからできたことで、自分はきっかけを作っただけだなあと思ってしまう。結局、完結させたことがない。

自分はこれから何か自分自身でなにかを生み出す人になるのか、生み出す人を支援する側になるのかが、まだ定まっていない。もうそろそろ定めないとと言うか、スタンスを決めておかないと厳しい状況になってしまう。

そうしたスタンスの決まらなさが、結果的に何かしなければ、何か発信しなければと言う焦燥に繋がっている気がする今日この頃です。

2018年10月29日 午前1時59分 近所のデニーズでドリンクバーのアイスティーを飲みながら。

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気晴らし-2018/10/20

気晴らしにドライブしてみた。ついこの前書いたけど、せっかく車があるんだしということで、山梨の方に行ってみた。

気晴らしっていう字、気散しだと思ってたことが結構前にある。なんかこう書くと人材を人財みたいなアレでやだけど。

どうだった?と聞かれれば、まあ気晴らしにはなったのかなという感じで、どうということはなかった。

何が問題って、自分の中で気晴らしということ自体がそれほどいい印象を持って受け止められていないというところが厄介だ。

気晴らしってしていいのかどうか、いまだに少ししていてモヤモヤする。本当に気晴らしして何か効果があるのか、本当にそうやって気晴らしをしていいのかどうかがすごく迷う。

遊びだってそうで、基本的に遊びってなんというか、していいものじゃなくて、勉強しの対価というか、そのご褒美的なものとしてやるものだったから、どうも遊んでいてもモヤモヤしてしまう。

明確な消費行動というのもそれと同じ系譜にあるかもしれない。何かのご褒美的な立ち位置でやるのはいいけど、そうじゃないのはちょっと。
さらに問題というか当たり前なんだけど、金銭を自分で支払うもんだから何か投資可能性を削って消費することになってしまう。時間も限られている。
そんなことをしていいのかという罪悪感が積もってくるもんだから、どうも気晴らしした気になれない。

そもそも、何か普段やっていることでストレスが溜まるから別のことをしましょうということ自体が、何か間違ってるんじゃないかという気がしてくる。
車に乗ってるとつくづくそれを思う。

 

ただ一方でそうやって気晴らしをしなかったり何か普段やってることとは全く違うことをしないと、視野が狭くなって行き詰まるのもなんとなくわかる。
この前twitterで誰かが言ってた気がするけど、遊ぶ能力、才能ってすごく大切で、それを子供の頃全くやってこなかったのでほんと参ってる。

そうやってうまくいかないのをまた親のせいにするのかと言われそうだけど、でも参ったなあと最近思う。

僕の場合というか、これ結構一般的な話なんじゃないかと思うのだけど、本当に感情を動かして娯楽を楽しんでいることってどの程度あるのだろう。たとえば、ソシャゲをしている人とか、電車の中で色々している人たち、週末ショッピングセンターに買い物に行く人たち。

みんな本当に楽しんでやっているのだろうか。僕が悲観的なだけなのだろうか。気晴らしと言って、本当に感情を動かしているのだろうか。とてもそんな風には思えない。なんだか、暇つぶしの一環みたいな感じなのではないか。

そういってじゃあ感情が動くものいうと、パチンコだその辺りが出てきてしまうかもしれない。感情をあまり動かすとそこに中毒性が出てきてしまうみたいだ。

しかし例えば、毎週末バイクでどっかに行くとか、時間を見つけてはサーフィンする、お金がたまればすぐにでもカメラのレンズを買ってしまうと言ったようなこともパチンコにハマったりとかソシャゲに100万使いましたとあまり変わらない気がしないでもない。ただじゃあ何が違うのかっていうと、結局金額の度合い、脳の反応の仕方の度合いの問題で、あまり度を過ぎてお金を使わせてしまったり感情を煽りすぎるとそれは中毒という病気として認定されて、あまり良くないものとされてしまうようだ。

適度な気晴らしが重要です ということで、やっぱり総てはバランスなのかなあと思いながら、試しにしばらく、あまり感情の動かないことをできる限り市内で過ごしてみようと思います。息が詰まって何もできなくなっちゃうかな。

 

2018年10月20日 午後11時30分自宅にて

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生活を見に行く 2018/10/14

最近、車をもらった。

今年(2018年)1月に免許を取り、カーシェアを使いながらなんだかんだ言って2000kmぐらいは乗っていると思う。車中泊の旅行をしてみたり、ちょっと近所のスシローに行ってみたり(駅近にはなかなかない)と結構楽しんだ。

ただそれも最近はわざわざ2、3千円払っていかないでもなあと思うようになり、だんだんと乗らなくなっていた。そんな時、車を捨てるけどいる?と言われた。

かなり迷った。都内に住んでいて車を持つのはちょっと意味がないというか、かなり贅沢なことだと思っているからだ。

都心から電車で1時間ぐらいのところに実家があり、年300日近く往復2時間ぐらいかけて都内に2年ほど通っていた。今は東京駅に電車で5分ぐらいのところにおかげさまで住めていて、すごく快適 とはなかなか言えないんだけれども、本当に都心に住んでいるなという感じがする。

実際生活してみると感じるのは、郊外に住んでも高い家賃を払って都心に住んでも結局生活コストはあまり変わらないんじゃないかなということだ。

僕の場合会社が交通費出してくれると行っても別に、確かに経費にはなるけれども自分の会社なのでまあコストになってしまうだけだ。なので通勤にかかる交通費も実質自分のコストだと思ってみている。

その前提を敷いて考えると、郊外に行けば行くほど家賃は安くなれど、結局交通費が結構かかってきてしまう。しかも郊外に行っても家賃は意外と下がらない。ワンルームで探してみると、どこまで行っても少しずつ広くなっていくだけでだいたい7万ぐらいはかかってしまう。もちろん、4万のところとかに行けば別だけれども、そうすると風呂トイレが共同だったり、そう言った条件がついてくる。まあそれも今思えばありだなと思わなくはないけれども、初一人暮らしの僕に当時その選択はできなかった。

で、話を戻すと結局郊外に住んだ場合、車を買うことになるだろうと思う。なので都心に住んで高い家賃を払うか、郊外にすんで安い家賃+車を買う このどっちか選択だなと思い、前者をとって今都心に住んでいるのだ。なので、その上で車を持つというのは僕にとってこの上ない贅沢というか、非合理的な、投資でもなんでもない消費行動になってしまう。そして消費行動につき維持費として駐車場3万以上と、保険もろもろで5万近くかけるんだったら、もうちょっといろいろな投資できるよなと思ってしまう。

しかも住んでいるところから徒歩3分圏内にカーシェアのステーションが3箇所、10分歩けば7、8箇所ある。そんなところで車を持つ意味は正直言ってないのではないかと思った。

 

ただ、まあこれを改めてこうして言葉にしてみると、なんだか車を買いたい人が家族を説得するための言い訳のように見えて仕方ないけれども、以下3つのことを実際どうなのか体験してみたくなって、とりあえず来年分の税金がかかってくる3月末まで持ってみることにした。

1つ目 行動範囲が広がる

これは免許取るかどうかって時に散々いろんな人に言われて取ることにしたので、それを改めて実感できればなと思っている。もちろんこれはカーシェアで実感できるでしょという話なんだけれども、もう一つ僕が勝手に定期券効果と呼んでるものがあって、それと相まってどうかみてみたいと思っている。

定期券効果は、定期券内だとそうじゃなかった時全く行かなかったところにすごく行ってしまう現象だ。仮にそれが初乗り運賃150円とか数百円だったとしてもお金がかかるというだけで行かなくなってしまう。それが定期券みたいに一括でもう払ってしまっていると、よく行くようになるという現象。

カーシェアで都度借りた方が総額的には安いかもしれない。ただ、仮にそうだったとしてもじゃあ2500円払ってくら寿司に行くかというと、行かないだろう。そういうことで、今回車を持ってしまっているという前提を作ることでどの程度行動範囲が広がるのかをみてみたいと思う。

 

2つ目 車前提の生活を体験してみる

今は都心に住んでいるけれども、例えば奥多摩とか、多摩、生田、と行った車がないとあれだけどあればまあいいかなという場所、電車に縛られない場所に住んでみたいという気持ちがある。じゃあ、車前提だとどうなるのかというのをちょっと体験してみたい。これに関しては体験できるのかどうかはわからないけど、例えばikeaに行ってみるとか、郊外のホームセンターに行ってみるとか、そう行ったことをやってみたいと思っている。

ちなみに、以前カーシェアを使って1週間、移動を全て車で仕事をしてみるということをやってみたけど、これは僕の場合もう二度とやりたくないというのが正直なところ。少なくとも今の仕事の内容からするとちょっとこれはないなと思ってしまった。

一番はまあこれは慣れれば大したことないのかもしれないけれども、狙った時間に到着することがすごく難しい。かなり早めに出た場合でも1週間で2回間に合わないことがあった。この間に合わなかった時の運転ほどストレスが溜まるものはなかった。もう二度としたくない。
ふと思ったのだけれども、もしかして日本の時間きっちり文化は電車前提の生活があるからこそなのではないかと思った。車社会、アメリカとかそこまでいかないでもドイツとか車前提で生活しているところでは、日本みたいにきっちり何時何分みたいな決めてアポ取るの難しいのではないかと思った。ただそうすると、例えば日本でも車前提のところはたくさんある。そういったところはどうなんだろう。アメリカでも電車前提の都市はいっぱいある。そういったところはどうなんだろう。時間のタイトさに対する文化は移動の文化からくるんじゃないかとちょっと思った。

次に駐車場代の問題。これは日本特有なのか海外もそうなのかわからないけれども、ちょっと高すぎる。一回打ち合わせしてなんや感やして戻ってくると2千円ぐらい取られる。1日平均で3500円ぐらい駐車場代がかかってしまった。このコストのせいでタクシー乗った方が安いのではという状況が生まれてくる。実際移動距離を考えるとタクシーの方が安かったと思う。やんなっちゃう。これが海外だと無料がほとんどなのかなあと思いながらコインパーキングに止めていた。その辺りの事情も一度海外で運転して知りたい。

次に高速代。下道でいけばいいじゃんという話なのだけれども、時間を考えてなんだかんだで使ってしまう。横浜とか、千葉とか行くとなると確実に使う。そうするとあっという間に2000円以上かかってくる。これじゃあグリーン車乗って作業しながら移動した方が良かったんじゃ。。。と思えてしまう。

というわけでつまり、僕の仕事で車移動というのはちょっと合わないみたいだった。

もうその時点で半分以上車持つ意味ないよねという話なんだけれども、まあもちろんこれが全国展開というか、車があることによって全国津々浦々どこでも会いに行けるよねという感覚になってきたら、何かが変わってくるのかもしれない。それにしても、レンタカーの方がいいかもしれないけれども

で、話を戻すと、じゃあ生活だとどうなんだろうという話。生活だけでなく、例えば気軽に旅行に行けるようになるとか、そういったところで車があるという前提が敷かれた時、どういった自由さがあるのかを体感してみたいと思っている。

 

3つ目 いろんな生活を見てみる

いろんな生活を見てみたいと思っている。住んでいる人からすれば迷惑な話かもしれないけれども、結構色々な住宅街じゃないにしても、色々な街に行ってそこで生活したらどうなるんだろうというのを思いながらみて回るのが好きだ。

例えば機能は八王子に行ってみた。駅近辺は行ったことがあったけれども、流石にそこからわざわざ路線バスに乗って街の様子を見に行ったりはしない。そう行ったところで車で行って、地元のスーパーであったりとか、雑貨屋、ショッピングモールとかに行ってみてどういう生活かを想像しながら歩いて回るのが結構好きだ。

生活感をみに行くという書き方をするとなんだか上から目線で、ちょっと申し訳ない気持ちいなるのだけれども、僕としてはすごく羨ましい気持ちで見ている。僕は多分、生活感を纏うことができない。生活という、日々過ごしていければそれでいいという気持ちになることは僕にとってとても難しいことだ。

何か、慌ててやることもない。仕事があって、仕事が終わったらその時間は仕事とは全く関係のない時間が流れていく、特に意味を持たせる必要もない時間であふれている日々。ただそこにいるだけで、何かすごく感情的動きがあるわけでなくとも、それでいいと思える日々。安定いしていて、個人としてのバーンレートなんて考える必要がない。

それは僕には、今、想像できない。

ああ、意味なんてなくていいんだと、感じられはする。高校の時は全ての行動に意味を持たせようと躍起になっていたけれども、意味なんてない。意味なんて追求してはいけない部分があるということを最近は受け入れられている。でも、生活は、どうもきつい。そういう時間を過ごす旅にジリジリとした焦燥感に襲われて落ち着いていられなくなる。この人とただ一緒に居られればいいなんて、いつ思うことができるようになるんだろう。

そんな生活の片鱗を、見に行きたいと思っている。

 

そんなこんなで、とりあえずお金かかるなあと早速思っているけれども、3月は車を持ってみようと思います。ほとんど乗らないで終わっちゃうかもしれない。けれど、まあいい経験かなと思ってます。

 

2018年10月14日 16:41-18:32 ベローチェ新宿御苑前店にて

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価格の不思議 2018/10/11

https://www.buzzfeed.com/jp/kotahatachi/banksy-ed?utm_source=dynamic&utm_campaign=bfsharecopy&utm_term=.ceMoLZ9oyx

 

バンクシーの絵が1億5千万円で落札された直後にバラバラになったと言うニュース。相変わらず、芸術の価値はわかるようでわからない。いや、全くわからない。ここのところ、芸術どころかありとあらゆるものすべてについている価格というものがよくわからなくなってしまった。

ついこの前スルガ銀行がシェアハウスの運営を行おうとするサラリーマンを筆頭とした個人投資家に対して不正融資を行っていたというニュースがあった。その内容についての詳細記事で不動産価値の算定方法についての話が出ていた。

https://www.nikkei.com/article/DGKKZO36308270Q8A011C1EE9000/

不動産価格のこの話もそうだし、企業価値算定のデューデリジェンスの現場を見ていると、結局価格ってよくわからないんだなっていうことがよくわかる。よくわからないけれども、こうでしょうという価格を出すためにものすごい給料をもらっている人が地道な作業とと共にあらゆる相場を集めて価格が作られていく。価格が上げられていく。そして、買い手に説得していく。

ずいぶん前に書いた日記でもオークションの仕組みの面白さについてずいぶん書いたけれども、どうも価格決定のプロセスのイノベーションにすごく興味があるみたいだ。

普段、生活してる中でお金を支払う時どういう判断をしているかをちょっと振り返ってみる。

例えば今コーヒーを飲んでいる。星乃珈琲店なのでちょっと高い。なぜ向かいにあるドトールではなくこっちに来たかというと、ちょっと座ってゆっくり作業したかったからだ。あと、スフレは美味しい。

コメダ珈琲にいくときも同じ理由で、さらにモーニングサービスの時間だとコメダに行きたくなる。コーヒーは正直あまり美味しくない気がする。

スターバックスはいい立地にあって、ちょっと行きたい時に行く。もしくはある程度の量を飲みたいと思った時にはスターバックスに行く。ただ椅子は座りにくいし、混みすぎていてゆっくりするというイメージは僕にはない。

 

同じコーヒーでもこれぐらい差が出てくる。

なんとなく高いなとか、なんとなく安いなとか、そのぐらいは思うけれども、流石にこの価格差だとあんまり気にする人がいないんだろうか。僕は結構気にしてしまうから、それぞれのお店で、使い分けてる。さっきの作業するしないもそうだし、ルノアールとかだとほぼ待つことないから会議ではルノアールとか。

 

この程度の金額じゃあってことであれば、車とかどうだろう。

車に至ってはもっと複雑だし、よくわからない。

 

車はそもそも前提として、安全に走ることが多少の差こそあれど、法律で担保されているから、走って移動できますというところに関しては差のつけようがない。さらに、性能を上げても公道という場では基本的にその性能を使い切ることはできない。現代では軽自動車で十二分に性能を持っている。その上で、どういう走り味があるとか、どういう外見をしているとか、どういう稀少性があるかとかそういった話だ。

mini とかを見るとその値段の高さに驚く。いくら輸入車で色々大変とはいえ、こんなにも差がついてしまうのかと思う。他方日本車の安さには驚く。

高級車は走りが滑らかとか静かだとか、内装が豪華だとかそういった話があるけれども、そんな差では埋められないぐらい価格差があるような気がする。もちろん、車は量産効果がすごく効きやすいものだからちょっとでも希少性、カスタマイズ性を高めるといきなり値段が上がるというのはわかるけれども、それにしてもだとしたら、価格差はこの希少性という非常に抽象的概念で作り出していることになる。

フェラーリだってそうだと思う。エルメス、ルイビトンとかもそうだけれども、基本的には希少性があることによって価値が発生しているパターンだ。そのためにあえて高くし、数を作らないでもいいような構造にしている。一方で広告は大量に打って知名度を徹底的にあげる。結果としてみんな知ってるけど持っている人が少ないという状態を作り、価値を高めていくということだ。

ただじゃあそんな希少性がある車に乗っていてどうなのか ということを一応”合理的に”考えると、まあ、25億円のベントレーとかやっぱり説明つかないなと思う。

 

車以外にも今途中でちょっといったエルメスだとかルイビトンだとか、そういったものの価格はもはや説明がつかない。

 

じゃあ人件費はどうだという話に、踏み込みたい。

例えば芸能人。芸能人はそのタレント(って今言わないのかもしれないけど)の名前で売られていく。つまり、その人以外では何ら意味がない。その人自身の知名度がそのままその人自身の価格に直結してくる。CMとかは特にそうだ。もちろん知名度以外にもお笑い芸人だったら面白いことを言えるかどうか、トーク力があるかどうか、役者だったらルックス的にどうなのか、役に合う人なのか、ちゃんとこなすことができるのかといった要素も噛んでくるが、正直少しマイナーな舞台とブロードウェイとを見て回っていて確かに基礎技能の差はあるけれど、その差がじゃあそのままそのタレントの人件費の差を合理的に説明しきれているかというとそういうわけではない気がする。

コンサルタントとかもそう会社社長、映画監督、技術者、デザイナーとかも。

じゃあそのついている価格が不当かというと、不当に感じるということはあまり多くないように感じている。様々な場面で様々な見積もりを見せてもらってきたけれども、高い と感じたことはそこまでない。そんなものじゃないかなと思う。むしろもっと上げていくべきなんじゃないかと考えることの方が多い

妥当性についてはBtoCかBtoBかでかなり事情というか、判断軸が変わってくる。

B2Bであればその投資した金額に見合った金額が戻ってこなければならない。BtoCは消費財だからそんなことない。

というのだが、最近BtoBでもこれは一体どういう判断のもとで支払われているんだろう、金額が決まっているのだろうかということをすごく感じるようになってきた。

例えばオフィス賃料。一つ前のどこに住むかという話でもあるけれど、いったい六本木ヒルズに坪なん十万払ってオフィスを構えることにどういう意味があるのかという話だ。自分のデスク一つで月一体何十万かかってるかわからない。その分給料でもらいたいと思う人も少なくないんじゃないだろうか。

一応一定の合理的判断に基づいて入っているのだとは思う。例えば採用活動で有利になるとか、モチベーションが〜 みたいな話だろう。ただこれを合理的であるという風に考えてしまうのであれば、BtoCで完全に消費として捉える行動も合理的であると言えるようになってしまう。高級車を買うこと、高級なアクセサリーを買うことは身に着けることでテンションが上がるので合理的であるみたいな話になる。

 

具体例みたいなのをいくつか並べてきたが、結局何が言いたいかというと価格なんてあってないようなもので、そんな相場観に縛られて生きる必要ないんじゃないか、フリーランスの人ならそんな相場観に縛られて請求する必要ないんじゃないかという話だ。つまりちゃんと説明できるなら正直に話ましょうという話。

急に些末な話になった気もするけど、時給千円でたくさんの仕事を取らなきゃ行けなくてクオリティーが下がっては元も子もない。作ったものの価値を1万円と感じるなら、1万円で売ればいい。1万円で売るところ2万円で売って1万円広告にかけてブランド価値を高めたほうがいいかもしれない。相場なんてあってないようなもので、そこにちゃんとした言葉がつけばそれは合理的なものになり得るのだから。そんな原価から逆算しててもしょうがない。

今自分が安いと感じたら、それはなぜ安いのか。今自分が高いなと感じたら、それは本当に短絡的に相場観から比べて判断してしまってないか。そういう判断のもと買い叩いてしまっていないかを考えないといけない。

 

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