何かを発信しなければという焦燥感-2018/10/29
Twitter,Facebook,Instagram,Youtubeと、UGC(ユーザージェネレーテッドコンテンツ だったはず。。。)をベースとしたサービスがたくさんある。
こういったサービスを見れば見るほど、自分も何か発信しなければいけないという焦燥にかられる。
インターネットによって誰もが情報を発信できるようになり、誰もが誰とでも繋がることができるようになる。
インターネットのメリットを説明するときの教科書的文章だ。基本的には正しいが、現在結果的には現実世界と同じくアクセスがたくさん集まる場所と全く集まらない場所の二極化が進んでいる。本当に、不動産みたいな話だ。
一等地はGoogle検索順位1番地。メディアの運営とそれに付随する広告収入だけで1部上場している企業がわんさとあるんだから本当にすごい話だ。
どのUGCのサービスでも言えることで、一定のアクセスを得ることでそのプラットフォームが結構中抜きしているにも関わらずそれなりの収入を得ることができている人が出ている。
ただそれも本当に一握りの話で、全体の1%行くか行かないか。全く持ってもらえない人がほとんどだ。コンテンツというのは、積み重ねで気が付いた時にはもう追いつけないほどの量のコンテンツとそこに対するアクセス、オーガニックの検索順位という価値が付随している。なので、本当にやったもん勝ち的な部分がある。
最近この感覚がすごいあって、あまりよくないなあと思っている。この感覚というのは、埋蔵金探しみたいな感覚で誰かがやったらそのやったもん勝ちで、だんだんとそのあたりは減っていってると言う感覚。ゴールドラッシュの時に群がった人々がたくさんいるが、金には埋蔵量の上限がある。それだけ掘ってしまえばもう掘れ無くなってしまう。
なんだかあらゆる物事がどこかに上限があるんじゃないかと言う気がしてならない。
しかし、実際には世の中ここ何十年もうこれ以上便利にはならないよねみたいなことが言われつつも、結果的には進歩し続けているわけだからきっとそんなことはないのだろう。きっと10年後はもっと便利になっているはずだ。10年前には想像できなかったことが実際に起きているわけだし。
(新宿、10年後はどうなってるやら)
で、話を戻すと何かを発信しなければならないと言う焦燥に駆られている。
駆られているのだけれども、そうやって何かをひねり出そうとしている時点でもう才能がないと言うか、ダメなんじゃないかと言う意見がある。
作れる人はもう黙ってても作れるし、溢れ出してくるものだと。
ただ僕はこの意見には結構懐疑的で、と言うか自分がそうじゃないから懐疑的にならざるおえないと言えばそうなのだけれども、結構突飛よしもないものも何らかの延長線上か何かと何かの組み合わせだと思うので周りから見るよりも当人はひねり出そうとして、何とか出てくるアイデアなのではないかと思う。
何かを発信すると言うのは、要は自分の作品を作りたいと言う気持ちの裏返しなんじゃないかと思う。結局今の所自分自身で何かを作り上げたと言う感覚は全くなく、どのような物事もこれはあの人がいたからできたことだし、これはこの人がいたからできたことで、自分はきっかけを作っただけだなあと思ってしまう。結局、完結させたことがない。
自分はこれから何か自分自身でなにかを生み出す人になるのか、生み出す人を支援する側になるのかが、まだ定まっていない。もうそろそろ定めないとと言うか、スタンスを決めておかないと厳しい状況になってしまう。
そうしたスタンスの決まらなさが、結果的に何かしなければ、何か発信しなければと言う焦燥に繋がっている気がする今日この頃です。
2018年10月29日 午前1時59分 近所のデニーズでドリンクバーのアイスティーを飲みながら。